深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義6. 球磨先人の知恵と偉業

6-1. 肥薩線と球磨川橋梁

1)その昔、肥薩線は鹿児島本線であった

 平成29年(2017年)、JR九州メールマガジンは『2009年11月12日、人吉は100年前にタイムスリップします!』という見出しで次のような内容が配信されてきた。

 11月12日は、人吉駅前広場で肥薩線開通当時の100年前を再現するイベント「ノスタルジック人吉」を開催します。列車内からその雰囲気を楽しんでいただけるよう、肥薩線を走る「SL人吉」、「かわせみ やませみ」、「いさぶろう」、「しんぺい」に乗車の客室乗務員が「ハイカラさん」などの大正ロマン溢れる衣装で乗務します。車内で販売しているオリジナル弁当の掛け紙も、およそ100年前の絵ハガキを使った限定のデザインで販売します。人吉駅前では、SL人吉の労をねぎらい、SLが活躍していた100年前の衣装でみなさまをお迎えします。その他、郷土芸能の披露や人吉温泉女将の会による、明治時代風のカフェのおもてなし、人吉名産「球磨焼酎」の試飲も行います』というものであった。

たしか、SL人吉号は96歳を超えているとか聞いた。今回は、その人吉号が今も頑張って走っている肥薩線と鉄橋:球磨川橋梁の話である。肥薩線とは、熊本県の八代駅から鹿児島県霧島市の隼人駅に至るJR九州の鉄道路線である。八代駅には「肥薩線0(ゼロ)起点八代駅」の看板がホームに設置してある。肥後と薩摩を結ぶから肥薩線、人吉駅からは、奥球磨の湯前町まで、第三セクターのくま川鉄道、昔の湯前線(とせん)」であるが、八代から都城までを合わせて「えびの高原線」と爽やかな名前で愛称されている。

肥薩線路線図 SL人吉号
図1. 肥薩線路線図 と 球磨川第一橋梁を渡るSL人吉号(Wikipedia)

 図1は、現在の肥薩線の路線図と後で述べる球磨川第一橋梁とそこを渡るSL人吉号である。
沿線は、八代駅から人吉駅までは球磨川沿いに走り、日本三大急流の一つである球磨川渓谷の景観を望むことができ、この区間を川線と呼んでいる。人吉駅から吉松駅までは熊本県と宮崎県の山地を走るので山線と呼ばれる区間である。人吉駅を出るとすぐ日本最古の大畑(おこば)駅のループ線とスイッチバックがあり、矢岳越えでは、旧国鉄時代から言われている日本三大車窓の景観を眺めることができる。
ちなみに、残り二つの「日本三大車窓」というのは、一つは、北海道、根室本線(滝川-帯広-釧路-根室)の旧線で見ることができた「狩勝峠越えの絶景」である。しかし現在、この区間は廃線になっており、列車は迂回して走るので、車窓からこの絶景を眺めることはできない。二つ目は、長野県の篠ノ井線にある「姨捨(おばすて)駅からの絶景」である。

 人吉と吉松間が全通したのは明治42年(1909年)で、その前の明治34年(1901年)に鹿児島⇔国分(現隼人)間が完成し、明治36年(1903年)に吉松まで開通していたので、これによって門司-人吉-吉松-隼人-鹿児島間が結ばれ、鹿児島本線となり、九州縦断鉄道網が完成したのである。しかし、昭和2年(1927年)に川内(現在の薩摩川内市)- 鹿児島間が開通し、隼人-鹿児島間が日豊本線に編入されると八代-隼人間は肥薩線になってしまった。

 この時期、肥薩線が鹿児島本線であったことを示す絵葉書がある。湯前線の開業を記念して当時の鉄道省が発行したものらしい。珍しいので図2に紹介する。この絵葉書には、湯前線の開業は「大正13年3月30日」とあり、凡例に現在の肥薩線は鹿児島本線と明記してある。図の右は、開業当時の湯前駅で、駅には人力車が待機してのどかな風景であるが、この湯前線を宮崎県の杉安方面に延長する構想があったことなど、後でまた「あゝ湯前線」のページでは紹介する。

湯前線はがき 湯前駅
図2. 肥薩線が鹿児島本線と書かれた絵葉書(写真クリックで拡大) と 開業当時の湯前駅

2)鹿児島本線(肥薩線)は、なぜ山線ルートが選ばれたのか

 肥薩線の人吉-吉松間は天下の難所であり、難工事であったが明治政府の威信をかけ、鉄道技術の粋を集めて工事は行われ開通した。肥薩線の難工事で犠牲になった人達「鉄道工事殉職病没者追悼記念碑」が大畑駅のループ線入口に建てられている。図3左がその碑である。

殉職碑 殉難碑
図3. 肥薩線工事殉職者碑とトンネル出口の「肥薩線列車退行事故」殉難碑
 いまでも、221号線で宮崎や鹿児島方面に行こうとすれば、県境の山地は急峻で、二つのループ橋(螺旋状道路に架かる橋梁)を越さなければならない。肥薩線(山線)がどれくらい急峻なのかは大畑駅のループ線(高低差の大きな線区で勾配を緩くするため、線路をループ状に一周させて勾配を克服するための線路)やスイッチバック(急勾配を克服するため、線路をZ字型に建設したもの)からもわかることであるが、筆者は人吉駅から吉松駅までの標高を調べてみた。その結果が図4である。

標高
図4. 人吉駅から吉松駅までの標高

 縦軸(標高)と横軸(人吉駅からの距離)とでは単位が異なるので誇張されているが、当時の蒸気機関車のパワーでは「胸突き八丁」の線路であった。それゆえに悲惨な事故も発生している。なかでも悲惨だったのが「肥薩線列車退行事故」という事故である。第二次世界大戦終戦直後の昭和20年(1945年)8月22日、肥薩線の吉松駅と真幸(まさき)駅間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51)が前後から牽引と後押し状態で走っていた。人吉方面に向かって引っ張っていた牽引機関車が勾配を登り切れず停車してしまった。先頭の機関車はトンネルから出たものの、後押し機関車は、煤煙の充満するトンネルの中で客車ともども立往生する事態となり、排煙を逃れようと乗客は線路に降り逃げ始めた。ところが、乗客がトンネル内を歩いていたところへ、同じように排煙から逃れようとブレーキを緩めて後退してきた列車に次々とひかれて53名が死亡した。その多くが復員兵で、せっかく生きて帰れたのに、ふるさとを目の前にして事故でなくなるとはまことに哀れである。山神第二トンネルの人吉側出口には、図3右に示したような慰霊碑がたっている。写真の奥に山神第二トンネルの人吉側出口が見える。

 筆者はかねてより、八代から鹿児島方面に向かうのに、なぜ八代海(不知火海)沿岸など平地の多い海側に線路を作らなかったのかと不思議に思っていた。本稿を足すにあたりそれがやっと分かった。なぜ、水俣、芦北、水俣および出水など平地の多い海岸線沿いを選ばず、難工事が予想される山間線に決めたのか。実は、当時、日清、日露関係が懸念される状況下であり、最終的に陸軍からの意向で、艦砲射撃を受けないこの路線に決まったのだそうである。この路線をいかに政府が重要視していたかは、八代-鹿児島間が第一期線に編入され、宇土-八代間は民営の九州鉄道に工事をまかせ、八代-鹿児島間は官設と決まったことである。理由は「軍事上の必要」とされているが、南九州の精兵を動員輸送するためであった。ちなみに、日清戦争は明治27年(1894)〜明治28年(1895)、日露戦争は明治37年(1904)〜明治38年(1905)であり、人吉と吉松間が全通は前述したように、明治42年(1909年)である。

 そういえば、肥薩峠越えで思い出すのは、西南戦争のとき、西郷さんが熊本城の幕府軍を攻めるために辿った道も、海岸ルートではなく久七峠越えの山道であった。負けて逃げ帰った道も険しい加久藤峠や堀切峠で、いずれも海からの艦砲攻撃を回避したかったからだとか聞いたことがある。

3)球磨川橋梁は斜橋

 図5Aは、球磨川第一橋梁である。その架橋場所の地形が図5Bである。球磨川橋梁架橋工事中の珍しい写真がWikipediaに出ていたので図5Cに転載させていただいた。気づいているようで気づいていないことであるが、球磨川橋梁は、第一も第二も川の流れに対して直交して架かっていないことである。川を真横に渡るように架けると短い距離ですみ、建設材料も、経費も少なくてすむのであるが、この橋梁は斜めにかかっている斜橋である。球磨川第一橋梁のある場所は、肥薩線の鎌瀬駅の近くで、八代市坂本町川嶽である。八代方面からだと、鎌瀬駅を出るとすぐ渡る鉄橋(橋梁)である。この橋梁がどれくらい斜めに架かっているか図5Bや地図から測定してみると、川の流れに対して約60度(左斜角)である。なぜこんな不経済的な架け方をしたのか、筆者は長い間、引っかかっていた点である。

第一橋梁 橋梁位置 工事中
図5A 球磨川第一橋梁 図5B  架設場所と地形 架設工事中
球磨川第一橋梁架設場所(八代市坂本町鎌瀬)1908年(明治41年)の建設工事中の写真
(ウィキペディア、JR九州)

 このように斜めに横切る橋を「斜橋」といい、直角に横切る橋を「直橋」と呼ぶそうである。斜橋の斜角を表わすのに,川岸からみた場合,右に振れているものを右斜角θ度,左に振れているものを左斜角θ度という。球磨川第一橋梁は、橋のたもとに立ってみた場合、橋梁は左に振れているので「左斜角60度」ということになる。 実は、図6の球磨川第二橋梁も「斜橋」になっている。この橋梁は、球磨郡球磨村の三ヶ浦地区、肥薩線の那良口駅と渡駅の間にある。この橋梁は219号線側の右岸から橋を見た場合、右に振れている。その傾きは約60度であるから「右斜角60度」の斜橋ということになる。

第二橋梁 橋梁位置
図6. 左:球磨川第二橋梁  右:架設場所と地形(ウィキペディア、JR九州)

 前置きが長くなったが本題に移ろう。
球磨川橋梁は、なぜ不経済的な斜橋になったのかである。橋梁工学がご専門の元名城大学教授久保全弘先生の意見はこうである。「道路や鉄道の線形は直線部と曲線部の組み合わせで設計されています。一般道の昔の橋は川に直交して架けていましたが、近代の橋は走行性を考えて道路線形に合わせて斜橋または曲線橋とします。高速道路では、走行性のほか、直線部だけではドライバーの眠気を誘うので、曲線部を意図的に織り交ぜています。地方の一般道では、信号もあり、速度制限もできるので、相良橋のようでも特に問題ないわけです。一方、鉄道では、曲線半径をあまり小さくすると、遠心力の作用で脱線の危険性が生じます。したがって、昔から走行速度と曲線半径の関係を重視して線形を決めていますので、鉄道橋では斜橋が多いわけです。」

 理にかなった説明であるが、明治時代には高速道路もなかった時代である。当時の明治政府や鉄道省には、斜橋にしたもっと別の思惑はなかったのだろうか。名にし負う(なにしおう)急流の球磨川、斜橋であれば、急流の中に立つ橋脚も真横一直線ではなく、上下方向に分散配置され、流木の滞積(たいせき)も緩和されやすく、流れの抵抗も減るはずである。当時の設計者や施工者が、斜橋にした理由として、こんなことや自然景観を考慮したとすれば、その深遠(しんえん)な配慮に敬服せざるを得ない。

 ちょっと寄り道、球泉洞(きゅうせんどう)駅で途中下車しよう!この近くに2億年前の化石や地層を見られる場所あるからである。球磨川第二橋梁の下流、球泉洞から吊り橋の手前まであたりが「槍倒しの瀬」と言われる急流の難所で、図7左に示すように、白い岩肌の混じった右岸となっている。この岸の河原には図7右に示すような大型の二枚貝の化石「メガロドン」という恐竜のような名前の化石である。これは約2億年前の中生代三畳紀後期に生息していた大型二枚貝の化石である。

やり倒し メガロドン
図7. 左:球磨川槍倒しの瀬 右:二枚貝の化石「メガロドン」

 球泉洞付近の地層は、四国の三宝山付近(高知県香南市)の岩石や化石と同様のものを産出することから、三宝山帯に属すと考えられている。石灰岩は海洋生物の貝殻、サンゴなどの生物遺体であるから、この地帯の地層は、元は海底にあり、プレートの移動によって運ばれ、隆起したものであることがわかる。先に、球磨村総合運動場に百万年前の古人吉湖底層の「露頭」があることを紹介した。しかしここは、それよりも古い地層で、この地方で、これほど古い時代の地層が身近に観察できる場所は他にない。球磨村総合運動場の古人吉湖底層の露頭を見学する機会には、ぜひ、二億年前の「メガロドン」を訪ねられることを勧めたい。

 肥薩線には、球磨川第三橋梁、第四橋梁もある。第三橋梁は人吉駅を出て大畑駅に向かう途中で球磨川を渡るが、その鉄橋が図8左に示すような球磨川第三橋梁である。
人吉駅を出ると、位置的にはくま川鉄道の相良藩願成寺駅あたりから右に向きを変え、球磨川に直交した形で渡る。この橋は川に直交して架けられており「直橋」である。元の橋は水害で流出したようで、新しく1977年(昭和52年)に再架設されたものである。現在の肥薩線の人吉-吉松間の山越えルート(山線)は1909年(明治42年)に完成しているので、ここの第三橋梁も、その頃には完成していて、球磨川第一や第二橋梁などと同じ形式(ピン結合方式切り詰め形のトラス橋)の橋梁だったはずである。ただ、斜橋だったのか直橋だったのか定かではないが地形的には、図8右に示すように余地があり、直橋は可能だったはずである。

第三橋梁 橋梁位置
図8. 左:球磨川第三橋梁(ウィキペディア) 右:架設場所(Mapion)

 平成17年9月の台風14号のときの球磨川の増水は球磨川第三橋梁の橋桁を洗うほどの水量あったことが報じられている。そのことから推量すると、昭和46年と47年の人吉球磨地方の連続的大洪水では球磨川も氾濫していて、元の第三橋梁が流失であれば、橋脚に流木が滞積し、橋桁を流れが超すような事態での流失損壊であったと思われる。

 くま川鉄道、昔の湯前線と肥薩線は人吉球磨地方の人たちとって最も大切な足であった。球磨川第四橋梁は、そのくま川鉄道路線にある。川辺川が球磨川に合流する川幅の広い場所で、川村駅の約500メートル南東にあたる。橋の長さは322mの長大橋梁で、くま川鉄道を代表する土木構造物であり、登録有形文化財(建造物)になっている。この橋は、ほぼ直橋である。図9に球磨川第四橋梁と架設場所を示した。
この橋を撮影しに行ったおり、案内してくれた地元の人が、「真ん中まで行きまっしょ!」と言われるので「でも、通っちゃいかんとでしょう?」というと、「いや、めっちゃん通らんとじゃっでよかよか、、」といって鉄橋の上を歩かされることになった。真ん中ほどには避難場所になるようなステージが設けられていて、そこに立つと川なのに海の中に立っているような錯覚が起きたのを覚えている。これより先の湯前駅まで、球磨川橋梁はなく、くま川鉄道が球磨川を渡ることもない。

第四橋梁 橋梁 橋梁位置
図9. 左・中:くま川鉄道第四橋梁(筆者撮影) 右:架設場所 (Google)

【追 記】
2020年7月4日の熊本南部豪雨で、JR九州・肥薩線の球磨川第一橋梁(図5A)と第二橋梁(図6)、
くま川鉄道の第四橋梁(図9)が流出し、鉄道で人吉や八代に出る足が奪われ、復旧の目途が立た
ない状況になりました。

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